今日も病院勤めだったねね(姉)です。
久しぶりの日曜出勤、静かだけど忙しい1日をすごしました。
所々のお部屋でラジオがかかっており、小さな音で絢香の歌が流れていました。
優雅な朝だなぁー、と思って仕事をしていると、他のスタッフさんから
「あ!?」
「今ねねさんが歌ってるのかと思った!ラジオついてたんですね!」
このやり取りはほかのスタッフさんとも何度かしており、ラジオの歌声とねねの鼻歌を混同されることがあります。
ねねは
「んふふ」
「すごい御機嫌ですよね」
「ねねじゃないですよー」
「こんなに歌がうまかったらいいんですけどねー」
と笑顔で返します。
いつも穏やかにニコニコして働いて、愛想がいいので、すきとおる鼻歌を歌うイメージがあるのでしょう。
それは全て非現実。「んふふー」なんて微笑み、オフィシャルだけ。
人に与えるイメージ作りの名人芸ってこういうこと。
そう、ねねは音程というものが全然上手く発せられない、
音痴という不治の病にかかっている。
これは年寄りの腰痛・関節痛のように
「これは痛みとクスリとうまく付き合っていかなきゃね」
と町医者に優しく語りかけられるほどの難治性のもので、動けるうちはまだええやろ、がまんしいや、的な
声が出るならまだええやろ、なんとかしいや
的な
治せないから自分の限界点受容して割り切ってや、というところです。
神はさかもツインに音楽の才能を与えなかったので、幼少期より度々音痴に悩まされることがありました。
- 小学校の音楽のテスト(実技)でなかなか合格しない
- リコーダーもうまく吹けない
- 吹奏楽クラブで調子に乗ってトロンボーンを選ぶも、うまく吹けないから、エアびよびよーんでごまかす参考画像 (右手の動きで音程がかわる)
- 中学校の合唱コンクールで口パク
- 校歌も口パク(息継ぎのマネもうまくなった)
- 中学校の英語の授業で歌を歌わせるバカ教師がいて、声が小さいからひとりひとり歌わすとキレて、ねねの番になり歌わなかったら先生がお手本歌いを始め、それに続いて小さな声で歌ったら「なんじゃそりゃ」と言われた(あいつの授業クソだなと未だに思ってるし英語は喋れるようにならなかったから歌う意味も全くなかった)
- 人生の要所要所でハッピーバースデーを歌う機会があるけど、「ハッピーバースデーディア〇〇ちゃーん」のところのやや音が高くなるところが地獄。難易度が高すぎる
- 社会人になり、飲み会や合コンの二次会がカラオケとか最悪で絶対歌わなくてノリ悪い的な感じになるし、手拍子をしててもリズム感がないのでそのうち手拍子も裏どりになって分からなくなってやめる、そして寝始めるので、雰囲気の悪い子になり親睦が深められない。
- カラオケという言葉が恐怖
- 甥っ子姪っ子に歌を歌ってあげられない(子どもは歌が好きなので歌ってあげたいのは山々だが、下手すぎるので謙遜)
挙げればキリのない、音痴の悩み。
音程が理解出来ないのではなく、メロディーなども含め音楽鑑賞は楽しみます。
ただ、音が耳から脳に入って、口から音として出すところが問題で、口に何かトランスフォーマー的なものがついているのかもしれません。
で、歌うことについても自信がないので、ことさら人前で歌おうなんて思わなくなるのです。
どうしても音を奏でたい時は
「ハジュカシオシュシ」と奇声を発すれば済むのでそれでいいんです。
※オスシ、というあだ名の羊が恥ずかしい毛の狩られ方をしていたのでハジュカシオシュシと羊の気持ちを代弁している
まあ、世の中には音痴な人もいて当然。
それでいいと思っています。
なんたってあのTOYOTAだって、歌が下手だから。
イケメン、美容師、スタイリッシュ、おしゃれ、神は全てをTOYOTAに与えたかと思いきや、歌は下手といういたずらをしているので、世の中はまずまず平等かも知れないと思わせてくれるのです。
人よりちょっと多くギフトをもらっていても、ダメ分野が誰にでもあると思えば、自分の音痴だってしょうがないこと、と受け入れられるもんです。
今日のまとめ
- ねねの職場でのイメージ作りは成功している(いい印象を与えることに熱意を注ぎ、ボーナス査定を勝ち取る、でも本当は誰もいないナースステーションで舌打ちをし、「んだよ、まじでぇ!」と小声でキレている←こちらが真の姿)
- 音痴はさり気なく苦労をしている
- カラオケが本当に辛い
- ねねがようやく歌える歌は、電気グルーヴ20周年の歌か、ミッフィーちゃんの歌だけど不協和音感もろ出しになる
以上、これから先の人生、もしものことがあり、子どもを産むことがあるとしたら音痴過ぎて子守歌が歌えないので、平井堅レベルの人に歌って頂ける環境が必要である、音痴の英才教育を受けさせないためにも。
と真剣に考えているねねでした。