ここから先は私のペースで失礼いたします

さかもツインの健康で文化的なようでそうでもない生活をお送りいたします

こどものころのあたまのなかみ

皆様の子どもの頃の1番古い記憶はなんですか?

 

ねね(姉)はおねしょしてその後始末で手こずりお迎えの幼稚園バスに乗れなくて母に自転車で幼稚園に連れていってもらったときの非常に長い坂道を自転車の後ろに乗せられのぼって行く多分4歳の頃の記憶。

 

残っている1番古い記憶というのは脳の発達上3~4歳頃であることが多いそうだ。

 

幼稚園の頃の記憶というのはあんまりないが、家で飼っていた金魚にかっぱえびせんをあげて金魚のたらいを油まみれにして怒られたことや、幼稚園のお泊まり保育で夜お風呂に入れなかったのが嫌だったことなど特別な出来事の記憶だ。

5、6歳のときに実家を建て替えているのだがそれまで住んだ家の家具や部屋の配置などは全然覚えておらず日常というものは子どもにとっていかに興味のない退屈なものだということがわかる。

あの昭和の家は確か2階建てで階段が急で全体的に家の中が茶色くて全くの昭和の世界だったと思う。願わくばもう1度だけあの家を見てみたいがそれは写真の中だけで。

 

幼稚園の頃の記憶というのは曖昧で所々しか覚えていないがめめ(妹)がヘルニアで1週間くらい入院したことがある。

この期間人生2度目のさかもツイン解散、さかもシングル×2となった。

めめが何で入院しているのかもいつ帰るのかもまったく興味がなかった。どうやらいなくなるらしいくらいの情報処理だった。

 

入院して家にさかもシングル×1が残され、喋る相手がいなくなった。

両親とは当たり前だが立場が違う人間なので友達ではない、遊んでもらったり相手してもらう人間でもないと思っていたのか?

7歳離れた姉と9歳離れた兄がいるが、同様に喋る対象ではないと思っていたのか、家でめめが入院してから喋るのをやめた。ちょうど幼稚園も夏休みだったのか誰とも喋らない日が続いた。

悲しくて寂しくて喋らなかったのではない。喋る相手がいないから喋らなくていいと思っていたのだ。

 

家族はもちろん心配した。めめが入院したからショックで喋らなくなったのではないかと心配した。

違う。

普段通りご飯を食べ、ちびまる子ちゃんを見て過ごしていた。テレビを見ていると父が「おもしろいか?」と聞いたので頷いた。もちろんおもしろいに決まっている。ただ喋らなかった。

 

確か1度だけ病院に面会に行った気がする。小児科病棟は感染予防のため子どもの面会はできないことが多い。めめの入院した病院もそうで病棟を仕切るガラス戸越しに面会した気がするのだがその時のめめの姿など一切覚えていない。ガラス戸のことは覚えている。ねねにとってはめめよりガラス戸の方が大事だったようだ。

 

手術ってなんだろう、麻酔ってなんだろう、くらいのことは思ったかもしれない。

その15年後にねねは看護師になるが、めめの入院体験は全くもって影響していない。ブラックジャックを読み医療の世界を知りたくて自分の学力でなれる医療従事者はと考えたら看護師だったためだ。

 

めめが帰ってきた日のことも覚えていない。たまにあのときねねは全然喋らなかった、という話をされるがそれは寂しさではなく喋る相手がいなかったからだ。そうやって勘違いしている大人たちをちょっと冷めた目で見ていた幼少期のねねなのである。

 

久しぶりにこんなことを思い出したのはとあるかっこいいご婦人のTwitterでだ。ありがとう太○田さん。あのおツイート昼に見て笑っちゃったんです。確かにねねは残念な子だ。

 

というか大人があーだこうだ深く考える必要のないほど、こどものころのあたまのなかみというのは理解しがたいものだ。あたまのなかみをうまく言葉にして伝えるのもこどもにとっては難しく大人には奇行に見えるかもしれないけど本人にとっては理由があるのだ。それを大人が勝手に解釈して理解しようとするのは甚だしい。

 

こどものころのあたまのなかみは答え合わせは大人になってからでいいのである。