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さかもツインの健康で文化的なようでそうでもない生活をお送りいたします

サヨナラの覚悟

人は死ぬ。私もあなたもあなたの大切な人も。いつか死ぬ。意識したことはあるか?

明日あの人が死ぬかもしれない、そう考えたことはあるか?

多分滅多なことがなければ死について身近なものとして考えないだろう。明日という日が今日の延長線上にある世界を生きている。

テレビでは「100年生きる時代」と繰り返しCMが流れる。

医療は発展した。

新しい薬がどんどん世の中に出てくる。

では本当に医療や新薬の力で100年生きられるのか。それは難しい話だと思う。100歳の自分がどういう形で生きているか想像できるか?寝たきりか?今と変わらず健康にすごしているか?そもそも100歳まで生きていたいと思っているか?100歳の体がどのようなものであるか想像できるか?

寿命や病気、事故、災害、ありとあらゆる形で死は訪れる。人間が寿命に対して傲れるわけがない。

 

病院に勤めて10年以上経つ。

今現在緩やかに終末期へと向かう高齢者の療養病院にいる。常々臨死期の患者さんはいるし、月に数人は亡くなる患者さんがいる。

看取りを通して思うに患者さんを取り巻く人たちが、死を迎えるまで、いよいよというときまで、死を迎えてからも、「この人が死ぬわけがない」という気持ちがどこかにあるように思える。

大切な家族だからこそ死んでほしくない、別れたくない、そんな気持ちがあって当然だ。大切な人であればあるほどそうだ。

だけど死んでほしくないという思いが強すぎて死にゆく人と向き合えないことがある。言葉にしたら涙がこぼれてしまいそうで。本当にお別れがきてしまう気がして。

 

痩せていく体。口数が少なくなり意識が徐々に落ちていく姿。独特の呼吸。増えていく体につながる管。

元気だった頃とはかけ離れた死にゆく姿。いよいよお別れが近付くときに言い残したことがあって伝えたとしても返事がない。こんなに怖くて寂しくて苦しくなることはないと思う。

もっと元気なうちに何をしておけばよかった。もっとありがとうと言いたかった。もっと一緒にいたかった。そんなもっとが溢れてきて涙をこらえているうちに何もできない時間が過ぎていく。

死者と向き合う時間はできたことよりもできなかったことのほうがたくさん思い浮かんで悔しくて胸がつまってしまう。

 

100年生きる時代と銘打ち、死から目を背けてはいないか?進歩した医療で全ての病を治せると思っていないか?事故など不慮の死を除けば高齢者が施設や病院で死ぬ時代である。死を迎える場所が限られることにより世間から死が隔離されているからよほどのことがなければ死を見つめることはないだろう。

実際私も親戚の死を通して臨死期は関わっておらず、死の知らせを聞き葬式に行って死者の顔をみてそのときやっと死を意識しもっと何かできたのではないかと胸をつまらせたことがある。このつっかかりというのは何年たっても消えない。明日あなたが死ぬとわかっていればもっとあなたを大切にしたい。ありがとう、あなたがいてくれて本当にうれしかった、あなたのおかげで、そんな言葉を何時間でもかけ続ける。

だけどその明日がいつくるかわからなければ来ないものとして考えてしまう。だって死は別れはとても怖いのだから。

 

逆に自分が死者になるとき。

あの人にもこの人にもありがとうと、あなたのことが大好きだったと、あなたと何をしてそれが本当に楽しくて忘れられない、そんなかけがえのない時間の話を延々とする。遺していく人が少しでも救われるように。楽しい思い出を少し持たせてあげて、あとは忘れてくれていい。できれば葬式は喪服などではなくおしゃれをして来てくれないか?と頼む。だって喪服かわいくないし。

 

死者の気持ちはわからない。遺された人にはこれでよかったか、という気持ちがついてまわる。

 

サヨナラコウシエンという漫画を読んだ。


笑えて、泣ける。ファンタジックギャグマンガ。天久聖一17年ぶり連載作品がついに単行本化!『サヨナラコウシエン』10月22日発売|株式会社リイド社のプレスリリース

この漫画はおじいちゃんと孫のふじおの物語である。

ある日大好きなおじいちゃんが死ぬ。まだ5歳のふじおはおじいちゃんとサヨナラするために甲子園を目指す旅に出る。

 

大切な人との死別は大人の目線で描かれることが多いが、この漫画はふじおという子どもの目を通して描かれている。

子どもの言葉で感情を表現している。死に立ち向かう感情を大人は難しく表現するが、根底にある感情は一緒で、突然やってきた大好きなおじいちゃんとの別れに納得できずわあっと大声で泣いたり、逃げたくなって葬式会場を飛び出してしまったり、どんな感情も立ち振舞いもサヨナラの前では本当は子どものように自由でありたい。大人だからそんな振る舞いはしないが理性なんか全部ぶっ飛ばしてわあって泣きたい気持ちなのである。ふじおがそんな気持ちをわかりやすく代弁している。

 

死後おじいちゃんがふじおと話すシーンがある。これが本当に泣けてくる。

まだ自分の死というものを経験していないので大切な人を遺していくことを考えたことがなかった。言いたかったこと、やり残したこと、それも遺された人と同じようにあるだろう。

死にゆく人と遺される人のわだかまりを優しく解いてくれるシーンがある。このシーンは強烈だった。不覚にも号泣してしまった。死にゆく人にも感情がある。そうだよな、そうだよな、と思って涙が止まらなかった。本当はもっと一緒にいたかった二人のやりとりは死を見つめてその先を遺された人が生きていくための言葉だった。

この漫画は色んな人に読んでほしい。特に死について胸につっかえる何かがある人に。言えなかった言葉、聞きたかった言葉。全てではないかもしれないがサヨナラコウシエンにはそれがあると思う。つっかえがほどける感覚、カタルシスとでも言おうか。

 

 

いつか来るサヨナラの日に。悔いなくあなたと関われているか。あなたの目をみて、背中をそっとさする。髪をとかし、手をとり、声をかける。今ある命と時間に誠意をもって関わることが私のサヨナラの覚悟なのである。