陽射しに暖かさを含ませて、春は少しずつやってくる。
春がくるとねね(姉)は心が踊り出す。
花が咲く、暖かい、パステルカラーのワンピースを着る、それも要因ではあるが1番は
セリ摘みに行けるからだ。
セリとはセリ科の多年草だ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA
セリ - Wikipedia
春の七草のひとつでもあり、食べたことがある方もいるだろう。
セリは冬が終わり気温が上がり始めた頃に降る雨のあとに陽射しを浴びて大きくなるらしい。
季節としては3月下旬~4月だろう。
田んぼの畦道や田舎の山で見かける。
さかもツインの母は田舎出身でセリ摘みは得意技であった。
25年位前はさかもツインの住む町も自転車を10分も走らせれば田んぼかたくさんありそこに生えたセリをよく摘んでいた。
さかもツインの母は嫌がるさかもツインを自転車の前と後ろに乗せ田んぼに連れていきセリつみを延々と2時間くらいやっていたと思う。
古い記憶を辿ると6歳位からセリつみに連れていかれどれがセリだかわからないものを「あんたらもやれ」と怒られながら摘んだものである。
子どもなので雑草もビニール袋にぶっ混むと「ゴミと混ぜるな」とめちゃめちゃ怒られた気もする。とにかく怒られたのでかなり文句を言った。泥だらけになるのもあんまり好きではなかった。「行きたくない、つまんない!」と。それでも連れていかれたのでセリつみは嫌いだった。
晴れた日の田んぼは当たり前だか一面に茶色でつまらない。所々に咲いたピンクのれんげを見て「昔は田んぼ一面にれんげが咲いてきれいだったんだよ」と教えられた。れんげ畑など今はもう見られない田園風景である。
セリつみに飽きたられんげを摘んだりして「まだ~?早く帰ろうよ!」と駄々をこねて怒られながら暇をつぶした。
袋いっぱいにセリを摘み母が満足するとやっと帰れる。帰ってからも忙しい。セリを洗ってゴミと分け食べられるようにするのだ。
もう少し大きくなるまで調理は手伝わなかったが、セリを洗いながら「ゴミを入れるなって言ったろうが」と怒られた。たぶん雑草や枯れ草のことである。怒られても「知らん」と言えるほどのメンタルはそれなりに持ち合わせていたので問題はない。
夕飯はたいていセリの天ぷらとおひたしだ。
おひたしにすると香りが強く出て子どもの舌にはちょっと苦く食べられなかった。
天ぷらにすると香りがとび、とてもおいしく食べられた。
というか子どもなので天ぷらと天つゆが好きだった。
というか天つゆがかかった白いご飯が好きだった。
天つゆかけご飯だけでよかったのかもしれないが、そこは脚色して母の作ったセリの天ぷらが大好きだった、ということにしておこう。
春のご馳走と言えばさかも一族ではセリの天ぷらなのだ。
中学に上がる頃にはもうセリつみに一緒に行くことはなくなった。
母に癌が見つかり一緒に過ごせる時間があと数年と思われたとき再びセリつみに行った。
今度は自転車ではなくねねの運転する車で。
変わらず慣れた手つきでセリつみをする母を見てあと何回セリつみができるか、あの春のご馳走を何回味わえるか、と思ったとき涙がこぼれた。セリつみは幸せな家族の記憶でもあるのだ。
セリをたくさん摘んでうれしそうに帰り天ぷらを一緒に揚げた。天ぷらを揚げられるまでに大人になったのだ、と思う。
母亡きあとも毎年セリつみに出かける。栃木に住む祖母宅の山でセリを摘むのだ。
祖父と山に出掛けて栃木の山の所々に枯れ木に紛れ淡い白の山桜が咲き誇り花びらをはらはらと散らす姿は世界一美しいなと思った。
祖父は信じられないくらいセリをたくさん摘んでねねにくれた。さすが農家の人間だ。
昨日セリつみに行ってきた。
藪がぼーぼーだった。
藪をかき分けて入り泥々の地面をよく見ると小さなセリが生えている。靴と手を泥だらけにしながら目をこらし両手いっぱいくらいのセリを摘んだ。
まだ小さかったので来るのが早かったようだ。泥だらけのセリを丁寧に洗う。ゴミも付いており洗うのに手間がかかる。
根っこも香りがあり食べられるのでとってきた。
ザルにあけると根っこの方が多い。
このあと天ぷらにしたがとてもおいしく、春のご馳走を思う存分食べた。
母は作らなかったがセリご飯というのもあり、ご飯にセリのおひたしをみじん切りにしてゴマ油とめんつゆで味をつけ混ぜただけの簡単レシピだかとてもおいしい。
今年もセリ摘みに行ってきたよ、とセリご飯を仏壇に供えた。きっとおいしいと思っているのではないか。
今年はもう1度くらい改めてセリつみに行こうと思う。あのときあんなに嫌っていたセリ摘みは今や楽しみで仕方ない春の行事なのだ。
子どもの頃に季節のおいしいものを食べさせてくれたことは、季節のおいしいものを食べる喜び、シンプルな幸福を教え込まれたような気がする。このシンプルな幸福はこれからも大事にしていきたい。
春がくるとセリを袋いっぱいに摘む元気な母の姿を思い出す。そうして束の間の春は過ぎていく。それでいい。