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さかもツインの健康で文化的なようでそうでもない生活をお送りいたします

置いてきたのは心だった

埼玉生まれ埼玉育ちのねねの故郷は埼玉であり他に故郷と思う場所はない。進学も就職も埼玉とちょっと東京でしているので第2の故郷と呼ぶ場所を強いて言うならば祖父母の家がある栃木だろうか。だけどそこは故郷と呼ぶほど訪れていない。埼玉を離れた訳でもなく故郷という概念が薄い。

 

それでも京都だけは特別な地だ。埼玉や栃木とは違う憧れのようで懐かしいようでたまに恋しくなる場所である。

 

京都に初めて言ったのは中学の修学旅行。高校の修学旅行でも行った。専門学校の卒業旅行でも行ったし友人との旅行でも行った。10~20代前半の多感な時に何度か訪れている。初めての一人旅も京都だった。

20代前半に京都の魅力にとりつかれいつか京町屋に住んでみたいと思っていた。20代後半で京都の人と遠距離恋愛をして京都に住むことがいよいよ実現するかと思ったが、現実は厳しく京都に住むということは夢のまた夢、過ぎたこととなり今では住みたいと考えることもなくなった。

きっと京都の夏の暑さ、冬の寒さの厳しさには身体がついていかないだろう。気候のいいときに行きたまに京都気分を味わうくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

京都の町並みは美しい。古いものをそのまま大切に残していることが素敵で、大切に使い続けていくという人の手がかけられ丁寧さがあるところがいい。古いものを壊して新しいものにする東京とは違う。

モルタル造りの外壁、古めかしい木造家屋の木の年季の入った色。モダンな西洋建築。堂々たる神社仏閣。どこを歩いても似たような造りはなく目新しい町並みに見えてくる。

加茂川のほとりで出町ふたばの豆大福を食べたり、八坂神社でおみくじをひいたり、知恩院で写経をしたり、錦市場でおいしい玉子焼きを食べたり、六曜社でコーヒーを飲んだり、伏見稲荷の鳥居をくぐって異世界に行った気分になったり、宇治の平等院で壮大な世界に浸ったり。

京都の好きなものをあげればキリがない。

故郷である埼玉にここまで思い入れはない。

新幹線で京都について京都タワーを見上げる。いつか上ってみたいと思うが1度も上ったことはない。京都の山に囲まれた風景を見ると京都という土地の独特さを改めて思いしる。
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京都に大切な身体に一部を置いてきているような感覚。取りにきたよ、と思うけど置いてきているものなどない。もしかして置いてあるのは心なのかもしれない。それをそっと拾い上げて抱えて京都の町を歩く。歩く。歩く。それはとても喜ばしく足の裏から京都という養分を吸い上げているようだ。

宝探しをするように歩き好きな建物を探してカメラにおさめる。何度でもここに来る。懐かしくて手に入らない宝物を恍惚としながら見る。そしてまた埼玉へ帰る。

 

新幹線乗り場のお土産屋で赤福を買う。最近八ツ橋を買っていないな。いつでも赤福を買える関西ってうらやましい。シズヤのパンを持って切符を何度も確認しながら新幹線に乗り込む。

別れを惜しむ恋人を見てかつての自分を重ねる。あのときもらった手紙は捨てられずに今でもとってある。

あぁ、置いてきたのはやっぱり心だったなと思う。それでいい。ここに置いておこう、いつまでも。また取りに来るけど手に入らない宝物だから何度でも来るよ。

新幹線が動いたらそっと目を閉じる。見送る人のいない帰路は悲しくなくていい。次に来られるのはいつだろう。そんなことを考えながら眠りにつくのだ。
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