ここから先は私のペースで失礼いたします

さかもツインの健康で文化的なようでそうでもない生活をお送りいたします

今願うこと

 今週コロナワクチンを打ってもらった。  

 

 医療現場で働くとはいえ、コロナ患者を受け入れている訳ではないのでこの時期で妥当とは思う。やっと打ってもらえてほっとしている。

 

 新型コロナウィルスの驚異にさらされ1年以上経過した。日々「万が一自分が感染したら」という恐怖がある。勤務先の抵抗力の弱い患者さんに感染したらあっという間にクラスター発生となるだろう。

『命を奪ってしまうかもしれない』

 それは容易に予測できる事態で償うことなど到底できないことだと分かっているから我々スタッフは皆ピリピリとしていた。

 

 PCR検査も先月受けた。結果陰性だった。今まで「ちょっと風邪っぽいなとか思うときPCRは受けられますか?」と何度も所属長に聞いてきたが受けられることはなかった。発熱時に自分の責任で受診しろというスタンスで、熱さえなければOKというゆるい基準だった。正直ラ○ザップのトレーナーの方が月2でPCRを受けていると宣伝でやっているのを見たとき「なんだよそれ…ラ○ザップのほうがちゃんとしてるじゃん」とあきれた。命を奪いかねないのにね。

 何度言っても上が体制を整えない限りは現状のままである。徐々にバカバカしくなってきてしまった。本当に気持ちが途切れて看護師やってるのがしんどくなった。なんのため?これでいいのか?もう気持ちが追いつかないのでは、と幕を下ろすことを何度か考えた。

 

 とある終末期の患者が入院してきた。

潜伏期間を考慮ししばらく個室に入ってもらいガウンやシールドをつけ万全の感染症対策をして接することになる。

 ナースコールがなってもガウンを着てシールドをつけ入室。それに時間がかかり「遅い」と苦情を受ける。

 「私は散歩にも行けないのか?患者にも権利ってもんがあるだろう」

と言われる。確かにそうだ。しかし入院している他の患者に何かあってからではどうしようもできない。それを何度も丁寧に説明する。

「どうしてもできない。テレビで見て知っていると思うけどとにかく今は時代が悪かったのよ。」と説明して分かってもらえたときはホッとした。

それでもナースコールはなりやまない。面会はできない、外へ行けない、家族との電話も声がなかなかでなくて通じない。そんな不安と孤独は薬じゃ治せない。

 

 終末期の身体のだるさ、重さを患者の足をさすりながら受け止める。フェイスシールドから汗がにじむ。暑い。重い。苦しい。

 

本当なら望めば家族が付き添って足をさすったりなんてことないテレビを見てぼんやり過ごしたり、聞きなれた声をまどろみながら聞くことだってできたと思う。

 

今の我々にできるのは家族にいつもの布団を持ってきてもらうこと、その布団をなんどもなんどもかけ直しては足をさすり身体の向きを変え「私はあとどれくらいだ?」という質問を2人で一緒に考えるだけである。

 

 ドラマなどの看取りのシーンで病室で子どもや孫に囲まれて心電図がフラットになって「親父~!」なんて団らんは夢のような話である。これがリアルじゃなくなる時代が来るなんて思いもしなかった。大切な人に囲まれてお別れすることができない時代が来たのである。

 

 面会者は数人まで。ガウン、マスクをして患者さんには触らないで、そんな世界なのだ。

 

 自分が終末の時をどう迎えるか想像したことはあるか?顔がよく見えないスタッフが呼んでもすぐには来てもらえなくて来たとおもったらすぐいなくなって、家族にも会えない、この不安や苦しさ、さみしさをじっと死ぬその瞬間まで耐えなければならない、そういう状況なのである。

 

  我々が終末期のケアをどんなに勉強してどれだけ経験を積んでも、ニューノーマルとかいう薄っぺらい言葉で終末期の過ごし方まで変わってしまった。

 

 『時代が悪かった』

戦時中の人もそう言い聞かせて色んなことを諦めてきたのだろうか。

 

 私自身祖父母をこのコロナ禍のなか亡くしている。90歳を過ぎており老衰(コロナ感染ではない)でありいずれそうなると予測していたことだったが、半年以上会えずやっと会えたのは棺の中の祖父母だった。

 生前と変わりない穏やかな顔で私はずいぶん救われる思いだった。入院先の看護師さんたちの手厚いケアが見てとれて会ったことのない同業者に救われたのである。大切な人と次に会うときが棺の中って自分を納得させるために色んな感情を無にしてどんどん世の中はどす黒くなってきた。

 

緊急事態宣言が発出され、たくさんの国民の自由と娯楽が失われてきた。職をなくした人だってたくさんいるだろう。諦めと怒りとバカバカしくなって無気力になる気持ち。人を咎めたり罵ることが娯楽になる世の中だ。本当に恐ろしい。

 

 それでもオリンピックはやるという。看護師の派遣をとか言うが今は現場でいっぱいいっぱいである。

コロナ患者を受け入れている病院を退職して私が勤める病院に入職した看護師がいた。入職して数日で体調を崩し休みがちとなった。そのうちイラつきがみられるようになり「ここのやり方が合わない」とあっさり退職した。

  仕事ができる人だったので残念である。こちらのやり方が悪かったのもあるだろうが、本人の身体にも心にも余裕がなかったのだろう。みんな晴れることのないストレスが溜まっている。どうしたものか。能力のある人をことごとく潰しにかかっている。とにかく疲弊しているのだ。

 

 ワクチン接種が進んでいない中、どうやって医療の余力を捻出するつもりなのだろうか。私にはわからない。わかるのは7月熱中症などで搬送患者が増え、コロナ対策をしながらめちゃくちゃになった現場で今にも糸が切れそうな気持ちをなんとか繋いで頑張っている人の姿だ。

 

 看護師だけじゃない、辛いのは。

このコロナ禍で身体の不調に気づくも適切な検査のできる大きな病院を謙遜したため、癌の発見が遅れ気づいたときにはステージⅣ。入院も手術もひとりで望み家族の面会はできなかったという話を聞いた。

 本当に悔しかった。話してくれた人はもう全てを諦めた顔をしていた。何も悪いことをしていないのに、なぜ、たくさん考えただろう。なぜ、どうしてこんなことに。考えても答えはでないし時間は巻き戻せない。癌は完治しない。通常の医療体制なら救われる命が救われないというのはこういうことなのである。泣きたくても涙は枯れてしまった、そんな話し方をする人になんと声をかければいいものか。助けたい、助かりたい、そんな気持ちが目の粗いザルをずるずると通りすぎもはやすくえない。悲しい。

 

 

自分の大切な人が救われない、万が一に備えてそんな覚悟を持たなくてはならない。今は元気な年老いた父親を見ると「何かあったとき呼吸器もつけてもらえないかもしれないが、それはそういう時代だから仕方ない、と諦められるか」と自問自答するが答えはいつだってNOだ。

 

 願うのは、通常なら適切に医療を受け助かるはずの人の命が今まで通り救われること。ただ、それだけである。平穏な日が戻るまでもう少しやれることをコツコツやっていこうと思う。