ゆんゆん丸という白くて大きい猫が家に来て2ヶ月が経った。
毎日鮮度ピチピチのかわいさを振り撒きおばちゃん双子はすっかりゆんゆん丸の虜である。
「かわいい」
この言葉を何度言ったことだろう。一生分のかわいいを摂取している気がする。かわいいオーバードーズでどうかしてしまわないかと心配になるほどかわいい。
半目なところもかわいいね!
朝起きれば「ゆんちゃ~ん」と挨拶し、出掛けるときには「ゆんちゃん行ってきますよ、お留守番よろしくです」と声をかける。
帰ってくれば「ゆんちゃんただいま!お留守番ありがとうね!何してたの~?あ~かわいい」となでなでする。
独り暮らしのときに「いってきます」とか「ただいま」とか言ったことはなかった。実家にいたときですら言わなかった言葉をゆんゆん丸は私に言わせている。いってきますと言えばただいまと帰ってきたときのほっとする感を味わえる気がする。
「わぁ~ん」(ゆんゆん丸の鳴き声はにゃーんというよりもわぁ~んという)
と返事をして出迎えてくれるのもうれしい。
いってきますもただいまも言わなくてもなんとでもなるけど、言えば気持ちが豊かになるのかもしれない。ちょっとしたことの違いというものをふとしたときに感じている。
ゆんゆん丸が来て初めて病院に連れていった。ワクチンを受けるためだ。キャリーに入れ外に連れ出したら不安そうに「わぁ~ん」と鳴いていた。
初めての病院で身体をみてもらい、おしりで体温を測る。これが嫌だったらしく診察台からぬるりと逃げ出した。
「飼い主さん、ちょっと押さえててくださいね~」と先生に言われるも、猫を飼って2ヶ月の猫ド素人の我々がゆんゆん丸の本気に勝てるわけがない。ぬるりと逃げ出すゆんゆん丸は結局看護師さんに押さえてもらった。
そのとき、毎日お世話をしているけども本当に心を許しているわけではないのかもしれないなと思った。嫌なことは絶対嫌という猫の本質を垣間見た。飼い主として責任をもって押さえたいけど、飼い主だからって絶対的になんでもできるわけないそれだけは忘れずにいないといけないなと改めて思った。世話してるから私はえらいんです、とか、世話してるから私は絶対なんです、とかそんな傲りは一切通用しない厳しさも感じている。
言葉は通じない、私からのお願いも通じない、ただただ尊重する。そういう存在との関わりから学ぶことは多い。
職場で天使のように優しい人たちがいる。多分この「尊重」を生涯のどこかで学んできたのだろう。私もそんな人たちのように優しい人になれればいいなと思う。ゆんゆん丸から癒しだけでなく「尊重」というテーマを学び与えられるものが大きいと感じている。
ふと目を離したときにゆんゆん丸がいなくなればどこにいるかと探す。違う部屋の窓際やカーテンの影、お風呂場、いつだって「ここにいたの!?」という場所にいて驚かされる。
きっとゆんゆん丸がいなくなって、私も歳をとってゆんゆん丸がいたことすら忘れてしまう日が来るだろう。だけどもこのゆんゆん丸と暮らしゆんゆん丸に話しかけゆんゆん丸を追いかける日々の温もりだけは忘れないと思う。
ゆんゆん丸がいたことを覚えていれば「ゆんちゃん、ゆんちゃんどこかな~」と探すだろう。
ゆんゆん丸がいたことを忘れたとしても「えっと何か、何かを探しているんだけど」とゆんゆん丸を探しているという形だけはからだが覚えているだろう。
いつかどこかの老人ホームで「ゆんちゃん、ゆんちゃん」と言って徘徊する老婆がいれば私だと思う。そのときは「白い猫ちゃんは今寝てるから大丈夫、ご飯もさっきあげましたよ、鶏のささみを茹でたやつね」と声かけてほしい。きっとほっとした顔をすると思う。きっとこの日々は私のなかでいつまでも輝く宝物のような日々なのだ。
大きくて白いうちの猫、どうぞこのまま元気でできるだけ長生きしてね。