ここから先は私のペースで失礼いたします

さかもツインの健康で文化的なようでそうでもない生活をお送りいたします

恋の終わりのような胸の痛み

まるで波に浚われるかのように。風に吹かれるかのように。散りゆく花びらのように。

なにわやは静かに閉店した。

なにわやとはねねの大好きな喫茶店のことである。浅草の路地裏にひっそりとある飴色の世界。古びた白熱球に照らされて、木のカウンターの温もりを感じる店内。ガス給湯器がボボボッボッと火を灯し、コンロではやかんのお湯がグツグツ沸いている。

鯨が小さな魚を丸のみにするように、この店に入るとこの飴色の世界に、マスターの世界に飲み込まれたかと思う。鯨は小さな声で「いらっしゃいませ」と言いして好きな席に座るよう目配せをする。

 

少し高めの椅子のカウンターに座るとマスターがそっとメニュー表を見せてくれる。床はタイル張りで椅子が安定しないのでガタガタ言わせながら腰掛けメニューを覗く。

メニュー表にはいくつか上から紙が貼られ「もうこのメニューの提供はありません」と無言のアピールをしていた。きっとマスターの気まぐれなのだろう。

 

なにわやはマスターがひとりでやっている。いつ訪れてもひとりでコーヒーを淹れている。マスターのペースでお店は動いている。

 

マスターとは。

口数の少ない、40代の眼鏡をかけている痩せた男。お世辞にも健康そうとは言えない。1日のうちお店にいるか寝ているか、のどちらかだろうなと思わせるような肌の白さ。

いつも白いシャツを着ているがお店でコーヒー豆を触るからシャツはどことなくお店と同じ色をしている。なんとなく飴色のシャツ。黒いカフェエプロンは痩せた男に絡みつきより細い体を強調させる。

 

メニューはコーヒー、なにわやブレンドというのがマスターのブレンド。ココアもある。ジュースは1度だけ友人が飲むのを見届けたがいつかの機会にと大事にとっておいたらついに飲む機会をなくした。

運が良ければコーヒーゼリーもある。

この店は喫茶店というにはややメニューは少ないがそれほどコーヒーにこだわりがあるのだ。少ないメニューのうちどれを飲んでもとてもおいしい。

バーのようなカウンター席とバックバーのようなコーヒー豆の陳列があるがバーではない。お酒の提供はない。しかしバーのようなムードのある店内なのである。

 

店内はいつも誰かがいる。誰のことも知らないが、この店とマスターとコーヒーのファンなのだろうということは伺える。

競馬新聞を片手にマスターと競馬の話をする紳士。それすら絵になる下町の日常のようであった。

あるときは雑誌か何かの関係者がなにわやについてスポットを当てようとしたとき、マスターは「ここなんかよりいいとこありますよ、アンジェラスとか」と控えめに答えていた。

マスターとはそういう男だ。光や称賛よりも自分の目と目先にあるコーヒーのほうが大事なのだ。

 

眼鏡の奥に光る眼光は、コーヒーを見つめている。

マスターはコーヒーを丁寧に淹れる。

湯温を計り、ネルドリップのドリッパースタンドに一滴一滴、眉間に皺を寄せながら丁寧にお湯を注ぎ入れる。

その瞬間、我々には固唾を飲むことしかできない。

永遠のような一滴を注ぎ込み、コーヒー豆が蒸れたところでお湯をゆっくり注ぎ入れる。これはなにわやのマスターにしかできないことだろう。

こんな感じで淹れるので、コーヒーの提供は数分はかかる。

前客がいるとコーヒーだけなのに10分近く待つこともある。「マスターは時間かかりますよ」と言うこともあるがみんな気長に嬉しそうに待っている。誰も急かさない。飴色の空間は時という概念を持たない。

 

出されるコーヒーは透き通った美味しさで冬は身も心も温め、夏は体に火照りを洗い流してくれるようだった。

 

何度ここに来て何度色んなことを考えて何度他愛のない話を交わしただろう。

なにわやはねねにとってのご褒美のような癒しの場所だった。

22時を過ぎても営業していたなにわやは観光客が去り静かになった浅草をやるせない気持ちで当てもなく歩き辿り着く先だったようにも思える。静かな浅草はやるせない気持ちを溶かして消してくれる。

 

 

無口でよく分からない喫茶店のマスター。

何かの物語のキーパーソンにもなりそうである。

このマスターのことは心底好きである。

付き合いたいとかそういう次元の好きではなくて、この人とは、を考えることが楽しい興味をそそられるという好意。

好き嫌いのはっきりしているねねはこういうよく分からない人が好きで少しずつ分かっていく過程がたまらなく好きなのである。これを恋と言うならばそれはそれでいいのだが、マスターを欲しいと、独占したいという恋人のような関係は求めていないので、離れず寄り付かずな距離という恋の形もあると思って頂きたい。所有することだけが恋や愛ではないのだ。

 

 

先日友人からなにわやが閉店して出雲に行くらしいと連絡が入った。詳しいことが分からないのでなにわやに向かおうと思ったがあいにく胃腸炎でダウンしてしまいなにわやに行く機会を永遠に失ってしまったのだ。

 

今日、なにわやの跡地を訪ねてみた。

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 あの飴色の光は漏れてこない。

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強風のためか植木はなぎ倒されていた。

マスターのあの樽のオブジェは撤去されていたので、多分この植木はここに置いていくということなのだろう。この木もずいぶんと大きくなったものだ。

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看板は外されてはいなかったが灯りが射すことはない。

 

閉店する旨も移転する旨も何も書いていない。

あぁ、本当に無くなってしまうのだな、なにわやの全てが。

 

恋の終わりのように、今生の別れのように、「あぁ、もっと来ればよかったな、もっとマスターと話したかったな」と次々に後悔が押し寄せる。

ああしておけばよかった、この気持ちを人生であと何回繰り返すのだろう。今までも何度も繰り返し味わってきたこの気持ちを忘れてはまた胸を痛めるのだ。

 

 

きっとマスターは新しい土地でまた一滴一滴祈りにも似たコーヒーを淹れるであろう。

ふらりと風に吹かれてどこかへ行ってしまうのだから風の知らせを受け取ったらねねもまたマスターのコーヒーを飲みにふらりと行きたい。旅する人の自由を奪うことなどできない。マスターの時に概念はないけれど、永遠ではないのだ。それでいい。

 

あぁ、またマスターの声が聞きたいな。

あのコーヒーが飲みたいな。

あの飴色の世界にもう1度飛び込みたいな。

素敵な時間をありがとうと、言い損ねてしまったな。

 

恋のような愛のような片想いのような、そしてその失恋のような寂しさを味わい、かつてのなにわやに想いを馳せた夜である。