敬愛する写真家の曽我灯さんの写真集『遺書』が完成したとのことで早速手に取らせてもらった。
https://x.com/gaso_0131/status/1799773157769072648?t=S_hUrmSrJ-tCPgmptaOJjA&s=19
人の遺書というものは今まで読んだことがない。まして多少なりとも人となりを知る人の遺書を読む日が来るなんて思ったこともなかった。
手に取る日の数日前から遺書を読むことを怖く思う瞬間も出てきた。これを読んでしまったら曽我さんがいなくなることを許容してしまうようで。
いや、もしものときのために残しておく言葉は必要なんだけども、それを書いてしまったら現実になるのではという死の恐怖から目を背けているだけなんだよな。本当は誰しもが死への準備をしておかなければならない。明日を今日と同じように迎えられる確約なんてないし。
遺書を取りに行く電車の中で深呼吸を繰り返した。深く深く、息をするのを忘れてしまうような緊張がずっと走っている。
とある和室のラブホで遺書手にしを読んだ。
写真集をパラパラとめくる。
どの写真も表情豊かで話し声や息遣いが聞こえてきそう。この場にいなくとも音や熱、匂いが伝わる写真たち。ページをめくるたびに目を細めた。曽我さんの写真はいいな、素敵だなって。
そして直筆の遺書を読み始めた。
心の内にここまで触れていいのか、読むのを少し躊躇いながらも読み進めずにはいられなかった。
心臓の後ろにある僅かな隙間に心があるとしたらそこに真っ黒な悲しみを背骨に向かってだらりと塗り込まれていくような感覚だった。
それがとても苦しくて涙よりも先に嗚咽が出てしまう。息をしないとのみ込まれてしまう。
この遺書だけで曽我さんのこと全てわかったわけでない、わかったような言い方もしたくない。曽我さんの心は曽我さんだけの心なのだから私なぞが陳腐な言葉で語るべきでないのだが、あなたの言う灰色の世界というものを少しだけ見た気がします。
それはたいそう暗かったでしょうに、、と遺書を読み終えた。そしてまた写真集をペラペラとめくる。
言葉の重さが写真の『生』を引き立てる。こんなに生きた時間に囲まれているのにどこか寂しさを感じさせる。
人の想いはその人だけのもの、という忘れがちだけど大切なことをずっしりと受け止めた。
読み終えたあと、明日には曽我さんがいなくなってしまうのではという漠然とした不安と喪失感に襲われる。掴んでいないと消えてしまいそうな人を掴むのはこちらのエゴであるということをわかってはいても今だけは掴ませてと思った。
自分の不安解消のために声をかけたり手を取る愚かさよ。私の中にあるそれはなんてケチでつまらないものなのか。そうやって自分の無力さを思い知る。
その人自身を尊重するなら取るべき行動を考えねばならぬ。
本当に本当に考えさせられる一冊だった。ここ数年で見た作品の中で1番心打たれたと思う。
帰りに実家に寄り、故人の日記を少し読んだ。
当たり前の日常を慈しむ言葉が並ぶ。亡き後はこうやって残されたものに縋るしかない。喪失の恐ろしさを知っているからこそ次の喪失が怖いのだ。
この日常から何一つ失いたくないよ今だけはそんなわがままも聞いてほしい。けどそれは無理なので子どものようにうえ〜んと声を上げて泣くことしかできない。
遺書を読んでから毎日泣いている。
多分明日からは大丈夫だろう。あなたに安らかな眠りが訪れるまでこの遺書は私の心の中にずっとおいておきます。
曽我灯『遺書』
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