先日軍艦島の高層アパート群を書きましたので今日は軍艦島での生活について書きます。
軍艦島名物高層アパート群について - ここから先は私のペースで失礼いたします
正面から見た軍艦島。
長崎港から約18㎞、広さ約6.3㌶という小さな離島で最盛期には5,000人以上の人が住んでいた軍艦島。
こんな辺鄙なところにそれほどの人が集まるなんてよほど住み心地がいい場所なのでは?と思いませんか?きっと良かったのだと思います。当時住みたい街ランキングがあったら今の吉祥寺や恵比寿くらいの人気があったかもしれませんね。高給取り、通勤楽(炭鉱は島内)ですもの。
島のライフライン~水~
小さな離島で問題となるのはやはし水でしょう。
河川や貯水地がなく湧き水もない島では昭和10年まで製塩後の蒸留水を使用していましたが、製塩事業廃止後は給水船により水を確保していました。
灯台の横にあるのが貯水タンクです。
天候不良で給水船が3日以上欠航すると、配水は飲み水、共同浴場の上がり湯、洗濯のすすぎ水などに制限されたそうです。(それ以外は海水。海水で体を洗うのは上がり湯は真水だとしても体がベタベタしそう💦)
給水船からポンプで貯水タンクへ送水していた。
昭和24年から給水船3隻体制が整い1日700㌧の真水を供給できるようになりました。
昭和30年代に入ると人口が4,000人を超え、生活用水確保が問題となります。
(昭和40年一人あたり平均169㍑の生活用水を使用していたというデータを考えると、軍艦島の当時の人口4,000×169㍑=6760,00㍑、加えて炭鉱、病院、学校などの必要水量を考えると700㌧(700,000㍑)では足りない)
昭和31年野母半島に水源を確保し、海底水道を通す大がかりな工事が行われました。
その頃の日本は「もはや戦後ではない」という流行語に表されるよう神武景気にのって勢いがあったのでしょう。でなければ海底水道なんて大がかりでハチャメチャな計画、しかも1年で完成なんて…すごい。
※どんな時代かを調べていたら当時神武以来のという言葉も流行り「神武以来の美少年(美輪明宏)」、「神武以来の天才(加藤一二三←今話題のひふみん)」と呼ばれていたそう。あのひふみんが!へぇ~となりました。
話がずれましたが、海底曳船法という方法で野母半島から端島まで6.5㎞の海底水道が通り、島内の配管工事が昭和32年に完了。
波が荒く工事は大変だったそう。そりゃそうだろうね。簡単なことじゃない。プロジェクトXだよ。これほんと。視聴率高い高すぎる。
各家庭に水道が通るようになりましたがトイレやプール、共同浴場には海水が使われていました。
(ほとんどの高層アパート群は各家庭に風呂がなく地下に共同浴場があった。お偉いさんが住む3号棟のみ風呂付き物件)
水と言えばプール。軍艦島にはプールもありました。
↑プール跡地
海に囲まれた島ですが、波が荒く外海で泳ぐことは禁止されていたようです。プールの水はもちろん海水を使用。
これだけの労力をかけて水を調達していますが、水道代は無料という軍艦島の男気に脱帽です。
~電気~
高島の火力発電所より電気が送電されていました。
詳しくは↓
端島の明かり | 軍艦島デジタルミュージアム 長崎の世界遺産、軍艦島を最先端の技術で再現
テレビの普及率も高かったので電気使用量はけっこうあったのでは?
~ガス~
30号棟を始め、台所にはかまどがありましたが、昭和30年代には電気コンロ、それ以降にガスコンロへ以降していきました。
家庭用プロパンガスのボンベは1ヶ月に1本無料で配布されていたが、昭和40年代になると1本100円になったそう。
実際にどのようなものが使われていたかわかりませんが、だいたいこんなのでしょうかね?
家でお風呂をわかさないので(風呂は共同浴場)使うとなればガスコンロやガスストーブくらいでそんなに使わなかったのではないでしょうか。
ガスを使う器具は意外と色々あるよ↓
都市ガスのオモシロ歴史|さぁ行こう!都市ガス調査隊|地域とふれあい がすたんパーク|ご家庭のお客さま|京葉ガス
以上ライフラインについてでした。
水については詳しく書かれていますがガスや電気はあっさりです。問題なく供給できていたのでしょう。
まだまだ軍艦島の生活が見えてきませんね💦ゆっくり続きを書いていきたいと思います。
参考文献はこちら↓
http://www.e-bunken.com/smartphone/detail.html?id=005000000005
長崎游学4「軍艦島は生きている!」 廃墟が語る人々の喜怒哀楽