勤務先の病院の系列施設で、ワクチンを2回接種した医療従事者がコロナ感染するという事例が続いている。どれも同居の家族より感染したそうだ。
急性期でない場末の病院にも静かに医療崩壊が忍び寄っている。これはただ事ではないしこれからもっと大変なことになっていくだろうという予感しかない。明けない夜はないというけれどこのパンデミックの終息の目処は全く見えてこず、希望の言葉はまるで笑えない冗談のようである。
オリンピックが終わった。患者さんたちはいつもと同じように誰も面会に来ない部屋でテレビを眺め、誰が金メダルをとったかなど話題にしていない。もちろんスタッフも誰もオリンピックのことを話さない。東京都の感染者数が4,000人をこえたというニュースにはぁ、と絶句するのみだった。
この状況がオリンピックのせいでないとしてもどうしてもこのオリンピックを認めるわけにはいかない、そんな怒りのようなやるせなさのようなものを感じる。スポーツが持つ力というのは健康で文化的な生活が保証されて発揮されるものである。口先ばかりうまいこと言ったって現実はついてこない。甘くない。
大阪で小学5年生の子どもがマスクをつけて持久走をしたあと倒れ死亡した自己をふと思い出した。アスリートたちがマスクをせずスポーツをしている。万が一に備え医療ボランティアもいる。この違いに胸が苦しくなる。亡くなった子はきっと正しかった。その小さな正しさが報われないと思った。遺族はどんな気持ちでオリンピックを見ていただろう。考えれば考えるほど苦しくなるのである。
これからお盆を迎える。
新盆となる故人もいる。病院でもたくさんの人を見送った。
『お盆の集まり控えて』
大切な人を亡くして家族で親戚で集まって死を弔うこともできない。普通なら故人の思い出話をわいわいして故人のいない生活を少しずつ前に進めていく機会が全くないのだ。
パンデミック下で祖父母を亡くした身として。
亡くなる前に入院していた病院に面会にも行けず数ヵ月ぶりに会ったら棺のなか、というなんとも寂しい出来事だった。人の命があまりにもあっさりまるでベルトコンベアに流されるように終わっていく。そしてお盆の季節まで緊急事態宣言は出ており墓参りにもいけない。そういう時代だから仕方ないのは重々わかっていても戸惑いが残る。あんまりにも一般市民の命が軽んじられている。心はどこへいけばいいのか。そしてそんな思いをしている人が他にもたくさんいると思うとどうしてもこんな世界になってしまったのかと手当たり次第責めて怒ってわめいて泣いてしまいたい気持ちになるのである。
その気持ちをなんとか丸め込んで平静を保つようにしたらふと糸が切れてしまいしそうになる瞬間が度々現れた。
職場では優しくて気の効く優秀なスタッフがどんどん辞めていった。たぶんきっと皆ぷつんと糸が切れたのだろう。これからもきっと優しい人ほど辞めていくと思う。今までと同じような医療が受けられると思わないことにした。みんないっぱいいっぱいなのである。
これからの日本にどうなってほしいか、何を言っても何も変わらない。私には力がないから。でもひとつ言うなら真面目にやってきた人がきちんと救われる世の中であってほしい。