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さかもツインの健康で文化的なようでそうでもない生活をお送りいたします

死にたくても死ねないのという言葉と向き合うには

 病院にいるとたまに出くわす言葉、「死にたくても死ねないの」

病気と闘う人の苦しさは計り知れない。死んだら楽になれると思っている人は多いだろう。その気持ちを否定するでも肯定するでもない、そんな立場でその言葉を聞く。

 

涙をこらえながら私が来るのを待ち、どうしたのと声をかけると震えながら目に涙を溜め「死にたくても…死ねないの…」と言う。震える瞼から涙が溢れる。

この言葉への適切な答えとは何か?

国家試験に出てこないけど1番難しい問題の答えを15年経っても探し続けている。きっとこれからも探すだろうが答えは見つからないだろう。

 

「そっか」

とまず答える。何年も病院にいて、繰り返し朝が来て3度の栄養剤の注入と、何度かのオムツ交換、体位変換、検温。何度も何度も誰かが部屋に来るけど監視されているようで、世間話もたいしてできず天井を見つめるだけ。身体はゆっくりちょっとしか動かない。痒いところを自由にかけない。時が過ぎるのをなんの目的もなく緩やかな死へ向かうだけの日々。

「そう考えちゃったんだ。そうだよね、死にたいって思っちゃうよね。何か楽しみがあれば、出掛けられれば、おいしいものが食べられればいいけどここにいたら何もないからね」と本当のことを言う。

震える目を見つめて髪を撫でる。

死にたくても死ねないことを諦めて受け入れているがたまにこうやって気持ちを涙に溶かしてこぼさないとやっていけない日もある。

 

「泣いてもいいから、悲しくなっちゃったもんね」

としばらく話を聞く。

 

「あなたが死んだら私は悲しい」という言葉は言えなかった。そう言われて嬉しい人もいるかもしれないが、私の悲しいとか寂しいという感情を背負わせて『死ぬことを、死にたいと言うことを禁じる』という宣告をしているようなものだから。あなたの人生であってそこに私の想いは今必要ない。

それで言うと『ご家族が悲しむよ』というのも同様。そりゃそうだ。身内が亡くなれば悲しい。でもあなたもそうやって身内を亡くしてきて、悲しくてもそれでも生きてきただろうから。家族が悲しむから私の辛い苦しいを我慢しろと強いるのか。そんな恐ろしいことはできない。家族のためなら頑張れるというのもあるかもしれないが、家族のために苦しめるというのはそれをよしとすべきではない。

ただ、今の日本では安楽死制度がないので死にたくても死ねないというのが現実。どんなに「死にたい」ともらしても死ねない。死にたくなくても死んでいく人がいるなかで、死にたくても死ねない人がいる。それだけは知っておかなければならない。毎日楽しくて明日が来るのが待ち遠しい人ばかりではないのだ。

 

「いつ死ねるかは私にもわからない。こればかりはいつだよって言えない。だから気持ちが溢れて苦しくなったら泣いていいよ。私が聞くから」

そう言って涙を拭ってあげる。

 

「ありがとう」と言われた。

そんなこと考えていたなんて知らなかったから私は驚いてしまったが、死にたくなるときもあって、それを溢さずにいられなくなるのだ。

慰めの言葉も抑止の言葉も嘘も気休めもいらない。溢れる気持ちを受け止めることが今のところ1番正解に近いのかもしれない。この気持ちや言葉は聞く人の心にも少しだけ傷をつけていくから本当のことはちゃんと言うことにしている。

 

涙が渇れだいぶ落ち着いた表情を見たらそう思っただけの話ではある。