先日軍艦島に行きました。
やまさ海運の軍艦島クルーズにに行ってきた話 - ここから先は私のペースで失礼いたします
長崎に行った話をすると、「ハウステンボス?」と聞かれ「軍艦島です」と言うと「いいなぁ~」という会話を何度もしました。
一般的に長崎観光といえばハウステンボス、軍艦島は行ってはみたいけどなかなか行くチャンスがないという秘境のようです。
軍艦島クルーズで島での生活を聞いたのと、本を読んで軍艦島についての記録です。個人のブログレベルなので難しいことや間違いはざっくり流していただければと思います。
軍艦島の歴史
明治2年 商社介入、採炭開始
明治20年 第1堅坑開坑に着手
明治24年 出炭開始
明治28年 第2堅坑落成
明治29年 第3堅坑落成
明治33年 端島第3次拡張
大正5年 日本初の高層鉄筋コンクリート造アパート30号棟完成
大正14年 第4堅坑落成
昭和6年 第6次拡張
昭和10年 老朽化にて第3堅坑廃棄
昭和16年 年間出炭量41万1,100㌧の最高記録を達成
昭和20年 終戦
昭和23年 組合交渉の結果端島手当が出る
昭和32年 海底水道工事完成、社宅各戸への配水開始
昭和33年 テレビ普及率100%(一般普及率16%)
昭和35年 人口5,267人となり世界一の人口密度の高さとなる
昭和39年 ガス爆発 採炭の深部区域放棄
昭和44年 端島砿の鉱脈問題表面化
昭和45年 端島沖の採炭工事中止を発表
平成27年 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製銅、造船、石炭産業の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録される
明治時代より採炭が本格的に始まり、今の軍艦島と呼ばれる形になるまで6回もの拡張を繰り返します。
軍艦島と呼ばれる所以は端島を北西から見たとき戦艦「土佐」に似ているから。大正時代よりそう呼ばれていたという。 たぶんこの角度↓
軍艦島の西側の海域は波が荒く西側を居住区とし高層住宅を建て(荒波から炭鉱を守る役割も果たしていたとか)、東側の比較的穏やかな海域に鉱山施設を建て船着き場を整備しており住む人よりも炭鉱のために造られた島であります。
↓明治の軍艦島
炭質は灰分や硫黄分の少ない瀝青炭(れきせいたん)。
コークス用(石炭を高温で乾留して揮発分を除いたもの。発熱量が大きい燃料となった)の高級原料炭として日本一の質の高さを誇っていた。
炭鉱の仕事
海底炭鉱であり炭層が島の真下にあったため海面下1,010㍍の坑道を掘削。
炭層に沿って石炭を掘り進め、掘り出した石炭は巻き上げ機によって地上に運びます。
坑員は堅坑(堅坑)という地上から垂直または垂直に近い形で掘り下げられた坑道で、秒速8㍍という速さ(普通のエレベーターは秒速1㍍、かなり速い)で下り採炭現場へ入っていきました。
堅坑について詳しく↓
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-01-04.htm
ABOUT GUNKANJIMA − TUNNEL OF BLACK DIAMOND
坑内は気温30~36℃湿度90%という暑さ(地熱と換気不良のための暑さ?)夏場にはケツワレ(ずる休み)する者もいたとか。
炭層が40~60度と急傾斜で機械の導入が難しく多くの作業を人力でこなしており、体力腕力のいる重労働。8時間3交代24時間稼働していたそうで軍艦島は夜も煌々と明るかったそうです。
採れた石炭は第2坑横にある選炭場から貯炭場へベルトコンベアーで運ばれました。貯炭場から石炭運搬船に積み込まれ出荷されていったようです。ボタと呼ばれる質の悪い石炭や岩石は居住区のある西側海岸へベルトコンベアー(31号棟を貫通していた)を通し捨てていました。
採炭から精炭までこの小さな島で行われていたのです。
現在はベルトコンベアーの支柱のみが残ります。
赤レンガの建物は倉庫(総合事務所とパンフレットでは書かれている)でした。写真右方に見えるのは第2堅坑入坑桟橋跡。桟橋への階段がかろうじて残されているのみです。
倉庫の隣には坑員専用浴場があり、真っ黒な姿で上がってきた坑員さんは服を脱ぐのも一苦労、まず荒洗い浴槽にて服も靴もはいたままつかり汚れを落とします。
きれいになったところで服を脱ぎ温水浴槽へ、最後は上がり湯(ここだけ真水、前段階2浴槽は海水を使用)に浸かり汗や汚れを流していたそうです。
作業後の坑員さんの写真。顔が真っ黒!
浴槽は跡形もなくなってしまい現在は崩れたコンクリートの広場となっています。
炭鉱内は粉塵爆発やガス突出の危険と隣り合わせ。「ご安全に」という挨拶が交わされ緊張感の漂う現場だったようです。
採炭が行われた84年間で炭鉱事故による死者は215人。ガス突出、ガス爆発、自然発火、落盤などなどによるもの。単純計算で年2.6人の死亡者がいることになります。いかに過酷だったか。それ以上に当時の技術で危険な炭鉱作業をこれだけの死亡者に食い止められた、という安全への意識の高さが伺えるのも軍艦島の凄みなのかもしれません。
炭坑員のお給料
過酷な現場で働く坑員さんのモチベーションはどこから?戦前から戦後という時代背景もあるとは思いますが、やはしお給料も大きいのでは。
給料日は毎月13日、30号棟の1階に賃金支払い所があり受け取りにいっていました。
※30号棟は大正時代の日本初の鉄筋コンクリート造アパート。
昭和23年、端島労働組合の要求、交渉の上業界初となる端島手当てが支給されます。昭和24年に出勤1日につき32円が支給となりました。
当時のサラリーマンの2倍の給料と言われたり、ボーナスは夏と冬の2回支給されていたようです。
1973年サラリーマンの平均年収14万円に対し、坑員さんは平均18万円でした。
高い収入に対し、生活費は安く抑えられたようで水道代は無料、アパートの家賃は昭和30年後半まで無料、40年代より10円程度かかり、電気・ガスは有料、会社経営の購買会の生活必需品は市場より格安で買えたそうです。
過酷な仕事ですが手当ての充実、ボーナス支給、生活費負担があるとかなりのホワイトな一面もあるようです。
おまけ ~石炭について~
石炭は18世紀初頭から産業用に使用され始め蒸気機関などには欠かせないものとなりましたが、1950年代のエネルギー革命で石炭から石油へ移行、日本においても昭和37年10月の「原油の輸入自由化」をきっかけとして炭鉱は徐々に衰退。軍艦島は昭和39年の炭鉱事故にて深部区域の採炭放棄をし時代の流れもあり昭和49年の閉山に至るのです。
では石炭は今現在使われていないのかというとそうではなく北海道では現在も採炭されており火力発電などに使われています。
エネルギー革命後も国内のエネルギーの1/4程は石炭で、オーストラリアやインドネシアから輸入しています。(知らなかったよ)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)
端島 (長崎県) - Wikipedia
参考文献はこちら↓
長崎遊学 軍艦島は生きている!
http://www.e-bunken.com/smartphone/detail.html?id=005000000005&category_code=ct5&sort=order&page=1
長崎游学4「軍艦島は生きている!」 廃墟が語る人々の喜怒哀楽
長くなったのでいったん終わりにします。
軍艦島の生活についてはまた後日。