その人の訃報は夏の終わりとはいえ眩しい朝陽が差し込む明るいナースステーションで聞いた。
これは私が新卒で配属された小児科病棟を精神的肉体的に限界を感じ退職し半年間の無職生活を経て働き始めた小さな個人病院で起きたことの話だ。
その個人病院はとても古い野戦病院のようなぼろぼろでひっちゃかめっちゃかな病院だった。トイレがドアノブで潔癖症の私はこれがとても嫌だった。雨が降れば雨漏り対策で廊下にタオルがひかれ本当にどうしようもない病院だった。
救急患者を受け入れていたのでいつだって入院患者は来るし、それに見合ったスタッフ数はいつだって足りてないし行き届かない看護に医者は怒鳴り声を上げる。正直辞める人は多かった。
そうすると残るのは古くからいるアクの強いおばちゃん看護師たちで、口は悪い、排他的、意地悪、という三拍子が揃いどうしてこんな人たちが罷り通るのかと毎日不思議に思っていた。
中にはとても優しい人もいて、そういう人に救われながら、成人看護を学んでいった。
その人はどちらのタイプの人かというと、前者の口の悪い人だった。
申し送りをすれば「検査の結果は?」などと突っ込まれすみません確認しますと言いながら冷や汗をかいた。
便秘の人をそのまま申し送ったら「下剤は?便処置は?そのままにされても困る」と怒られる。
もう本当に本当に苦手で怖くて仕方のない人だった。
もちろんその人が言うことは着眼点として大事なことでそれを見落としていた私が悪い。けど言い方があるだろうに、といつも思っていた。
少しずつ野戦病院に馴れてきて、着眼点も定まってくると申し送りは「うん、うん」と聞いてくれるようになった。
余計なことは話すこともなく職場のスタッフという距離は取り続けていたある日、私が日勤を終えロッカー室で着替えていると夜勤のその人が忘れ物を取りにロッカー室へ入ってきた。
「お疲れ様です」と声をかけると「お疲れ様、これから帰って何するの?」と珍しく話しかけてきた。
「帰ってご飯食べて寝ますね~」と当たり障りのないことを言うと、「帰ってお酒飲まないの~?そんな真面目でいたら疲れちゃうでしょ?息抜きも必要だよ。」と私のことを気遣う言葉をかけてくれた。
それはとても嬉しいことで「大丈夫です、ありがとうございます。」とそつなく返したが本当は優しい人なんだよな、と心の底から思った。この野戦病院のような場所で救われる思いがした。
誰よりも字がキレイで、口は悪いけど正しい仕事をしていたと思う。そう思ってはいたけども口に出すことはなかった。
「お先です」と私は帰り、その人は夜勤へ戻っていった。
次の次の日、皆より始業時間が30分早い私はナースステーショで膨大な量の点滴を詰めていたら師長が目を赤くして震える声で訃報を伝えた。
場が凍った。師長が何を言っているのかわからない。何を言っているのかわからないのだ。
40代のその人が死ぬなんて思えなかった。
死ぬなんてあり得ない。一昨日話したときのことを思い出した。あれはこれから死ぬ人の言葉だったのか…。
しばらくして師長が落ち着いたようで何があったか、これからどうするのかを話始めた。
葬儀の日は仲が良かったスタッフだけが行くことになり私はお別れの挨拶もせずありがとうの言葉も言えなかった。行き場をなくした言葉たちは何年経とうが生々しく残っている。
あのときのその人の言葉にどれだけ励まされどれだけ救われたか。
その日は虚無感に包まれ仕事が終わってから行き場のない感情を涙に溶かした。
いつだって突然にもう会えない人になってしまう、という怖さを知った。とにかく言えなかったありがとうというのは持てば持つほど重くて苦しくて仕方ない。
それまで自分のことで精一杯で25歳という若さも相まって何かやってもらって、声をかけてもらって、可愛がってもらって当たり前という気持ちがあったことを恥じた。
一緒に働く人を気遣うこと、してもらって嬉しかったことやこの人のこういうところいいなと思ったら言葉にしていこうと強く思った。
その野戦病院のような場所は1年半で退職した。短い期間とはいえよく続いたもんだと思う。私が退職してしばらくしたあと事務長の横領が発覚し新聞に載っていた。やばい場所だなと思っていたが本当にやばかった。そういう場所は長くいるべきではない。
だけどそこから学ぶことも少なからずあったのであの野戦病院のような場所は酷かったよねと笑うことはあるがそれ以上は言わないでおく。
その後も職場を3ヶ所経験しているが、感謝の言葉だけはとにかくしっかり伝えることを徹底してきており、今の職場で年の離れたおばちゃんたちとも何となくうまく、それなりに楽しくやっている。全部その人のお陰だと思っている。あぁ、またありがとうと言いたくても言えないことが増えてしまったな。